御花(おはな)


この場所は当時、柳川城の南西に位置する「御花畠(おはなばたけ)」という地名で呼ばれていました。これが、現在の「御花」という名称の由来です。当初は、藩主が日々の政務を離れ、家族とともに穏やかな時間を過ごすための別邸、いわばプライベートな休息所としての役割を担っていました。

・幕末から明治へ:立花家の決断

明治維新(1868年)という時代の大きな転換期は、全国の旧大名家にとって存続の危機でした。版籍奉還により藩主という地位を失った立花家(当時は14代・寛治)は、華族(伯爵)となりました。

多くの旧大名家が東京へ拠点を移す中、立花家は地元・柳川に留まり、この地に根を下ろす道を選びました。そして明治43年(1910年)、立花家の家威を象徴し、賓客を接待するための迎賓館として、現在の「西洋館」とそれに続く「大広間」を完成させました。

この時期に、現在も「御花」の象徴となっている庭園**「松濤園(しょうとうえん)」**も整備されました。仙台の松島を模したと言われるこの庭園は、立花家がかつての城下町・柳川の美しさを後世に残そうとした強い意志の表れでもあります。

・ 戦後の危機と「料亭旅館」への転換

第2次世界大戦後、日本の華族制度が廃止され、農地解放や財産税の導入により、旧大名家は再び財政的な窮地に立たされます。広大な敷地と歴史的建造物を維持することは、個人の資産では不可能に近い状況でした。

ここで、15代当主・立花鑑徳(あきのり)の養子である和雄と、その妻・文子(16代当主)は画期的な決断を下します。それは、代々受け継いできた邸宅を「料亭旅館」として一般に開放することでした。

昭和25年(1950年)代、かつての殿様の暮らしの場に一般の人を招き入れ、商いを行うことは、当時としては前代未聞の衝撃的な出来事でした。しかし、この決断があったからこそ、御花は取り壊されることなく、現在までその姿を留めることができたのです。

・現代の「御花」:文化財の継承と進化

現在、「御花」の敷地全体(約7,000坪)は、国の名勝に指定されています。

  • 17代当主から現代へ: 現在も立花家の子孫が経営に携わり、「守るべきものは守り、変えるべきものは変える」という精神で運営されています。
  • 文化の発信地: 敷地内の「立花家史料館」では、国宝や重要文化財を含む数千点の伝来品が展示され、柳川の歴史を今に伝えています。
  • 地域との共生: 柳川名物の「うなぎのせいろ蒸し」を広めるなど、地域の観光振興の柱としても重要な役割を果たしています。

まとめ

「御花」の経歴は、単なる邸宅の歴史ではありません。それは、江戸時代の**「お殿様の休息所」から始まり、明治の「華麗な迎賓館」を経て、戦後の苦難を乗り越えて「開かれた文化遺産」**へと脱皮した、立花家と柳川の人々の「不屈の継承の物語」です。

今日、私たちがどんこ舟からその優雅な姿を眺め、畳の上で鰻を味わえるのは、時代に翻弄されながらもこの場所を守り抜こうとした人々の知恵と努力があったからこそなのです。

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